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ノンマルト通信Express

フリーランスで自由自治

公園横のサイゼリヤ

街探訪

今日はやたらと天気がいい。青空に白い雲がくっきりと映えて、風の流れが早い。自宅に閉じこもるには勿体ない位、日差しが暖かだ。

発送する郵便物があるので、本局まで車を走らせた。他に予定はないので、ついでながら近くの航空公園でしばらく散歩をした。県内でも有数の広さの公園であり、年齢を問わず多くの人々に利用されている。

土日は駐車場に入れない程混み合うが、平日は営業車が休憩に立ち寄るスポットとしても活用されている様だ。

園内の樹々は葉が落ちて、まだ寒々とした姿だが、梅がチラホラ咲いている。白梅に紅梅、交互に植えられた梅林がある。桜ほどの華やかさはないが、春の到来を予感させてくれる。

土地に起伏があるので、宛もなくブラブラ歩いているだけでも良い運動になる。遊具の周りでは、小さな子供達がキャッキャと声を上げて微笑ましい。

それにしても暑い。冬物のジャンパーを着ていたら、うっすらと汗をかいた。天気予報によれば、今日の最高気温は20℃に達するとの事だ。春までもう少しだ。

午後2時を過ぎてお腹が空いたので、公園近くのサイゼリヤでランチを食べる事にした。浦所バイパス沿いの店舗で、車の出し入れがしやすいので、仕事帰りに時々寄ることがある。

ランチタイムの店内は、女性や高齢者の客が多かった。近所の人達なのだろう。夜間とは客層が違う。夜は、タバコを吸いながら、一人や男女で過ごす客が多い傾向だ。晴天と相まって、昼間のサイゼリヤは、明るく軽やかな雰囲気を感じた。

ランチメニューは500円で、ドリンクバーを付けても610円とお得な金額だ。喉が渇いていたので、さっそく野菜ジュースを飲んだ。

汗をかいた後は、コーヒーを飲みたいと思わない。体が心に指令を下しているのだろう。何が良いかは、体が知っている。肉体あっての人間である。

500円のランチなので鉄板モノとはいかないが、スパゲティの他に肉料理もちゃんと用意されている。スープにサラダ、ライスまで付けば十分なコストパフォーマンスだ。

松屋系列と違って、テーブル席のソファに腰掛けられる点もいい。デフレ時代のファミリーレストランとして、サイゼリヤは到達点のひとつだろう。

野菜ジュースをお替りして、腹休めをしてから店を出た。時間は午後3時、まだ陽は高い。暗くて寒い冬の陰極から、明るくて暖かい春へと着実に移ろいでいる。自然は人間の思惑などお構いなしに、それ自体のリズムを刻み続けている。

年中、春の日差しに包まれていたいと願っても、それは人間の采配ではない。浮いては喜び、沈んでは悲しむのが人の性だ。思えば、何十年も寒暖の季節を通り過ぎて来た。先々を考えても、結局今までと同じ轍を踏み続けるしかない。それが自然なのだ。

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寒いけれどトレーニング開始

所感

大分陽が伸びてきたが、まだまだ寒い日が続く。日中、快晴の天気ほど夕方からの冷え込みがきつい。

出不精の僕は、外出は極力控えて部屋に閉じこもりがちになる。冬の寒さは、心を無気力にする。強靭な肉体を持つ熊だって、冬は眠り続けて命を長らえる。

心も体も、年中使いまわしていたらエネルギーが枯渇する。休む事、さぼる事はむしろエネルギーを回復する為に自然なサイクルなのだ。

休むことを許されない日本人は、哀れな民族だ。命令する側も、命令を受ける側も合理的な判断が出来ず、情動的に苦しめ合い、負の連鎖を断ち切る事が出来ない。踊る阿呆と躍らす阿呆は、こっちから見限るしかない。

僕も相変わらず低調な日々を続けているが、自宅に引きこもる事でエネルギーの漏洩を防いできた。破滅に突き進む前に、無謀なレースを棄権することで、我が身の回復に進路を振り替えた。

無気力の重力に引き摺られながらも、時折やりたい事のイメージが湧いてくる。何度も欲求が湧いてはその都度打ち消してきたが、僕のエネルギーの目盛が僅かだが充電された様だ。

久し振りに運動する気になった。というより、運動が出来る予感が湧いてきた。今なら、自分に鞭打たず自然な気持ちで運動が出来そうだ。

夕方、外はすっかり冷え切っていたが、近隣の体育館へ向けて車を走らせた。ジャージは普段着ているものでいい。シューズは内履きが必要なので、一週間前に新調しておいた。

体育館で着替えを済ますと、館内をゆっくりと走り始めた。運動の基本は歩くこと、その次に走ること。余計な動作は要らない。呼吸しながら普段より心拍数を上げる事で、エンジンが徐々に温まっていく。

館内を4周したら、少し汗をかいた。適度に息も上がっている。それからフィットネスルームに移動して、筋肉トレーニングを始めた。体を慣らす事が目的なので、とにかく負荷を軽くした。楽な動作を続けることで、トレーニングへの抵抗が薄まる。

一般人にきつい運動は厳禁である。脳が嫌がって、結局は運動嫌いになってしまう。僕も部活や武道の経験はあるが、所詮は我慢比べの世界だったと思う。若い頃は、きつい経験があとで楽になると妄信させられていたが、苦痛は心に傷を残すだけだ。

大方の日本人は、自分の心の傷に気付こうとせず、尚更アクセルをふかそうとする。雨ニモマケズ、風ニモマケズ、年がら年中、日本社会は我慢比べの泥沼にはまっている。理性でブレーキを掛けられないので、ぶっ壊れる迄気付かないだろう。

途中にジョギングを挟みながら、軽いメニューを何度も繰り返した。マットの上で柔軟も欠かせない。なまった肉体には、筋トレ以上に柔軟の方が大切だ。

最後はマッサージ機に横になり、全身をもみほぐしてもらう。これで、明日の筋肉痛も軽減されるだろう。

のんびりと1時間半のトレーニングを終える頃には、心も体もポカポカしている。適度な疲労が、普段の思い煩いを忘れさせてくれる。運動の効能は周知の通りだ。だからと云って、弱っている人に安易に勧めるべきではない。

大事なことは、やる気が湧いてくるまで、心と体を休息させる事である。その休息の許可を与えられないから、日本人は哀れなのだ。自分たちの不幸に目を背けて、綺麗事のスローガンで心を麻痺させる。

川で溺れている者に向かって、「泳いで岸に辿り着きなさい」と声援を送る事は、如何にも馬鹿らしい。中には、川で溺れている者に向かって、「自業自得、自己責任、迷惑をかけるな」と中傷し、説教を始める大馬鹿野郎もいる。

周囲にそんな馬鹿しかいないのなら、そんな連中はシャットアウトして、自分で自分を許すしかない。自分の判断に他人の許可は要らない。自分の力だけで物事を解決できるとは思わないが、自分の味方になってやれるのは自分しかいないのだ。

それでも人は弱いから、何かに縋ってみたくなる。神頼みや墓参りをして、少しでも気が休まるのなら、宗教は心の杖になる。その杖に縋ってきた者に、宗教者は寄り添う義務がある。その気がないのなら、紛らわしい看板は下ろしてくれ。

川で溺れる者を見捨てる冷たさが、日本人にはある。自身もいつ溺れるか分からないというのに、幼稚な言霊信仰で臭いものに蓋をする。人と生まれて、悩みのない者はいない。老若男女、善人も悪人も困るはお互い様だ。

困った時に許し合える博愛精神、困った時に助け合える社会基盤、それが現在の日本人に足りないものだと思う。

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人生のリストラ

所感

トンカツ定食が食べたくなった。大宮で食べるワンコインのトンカツ定食が、無性に恋しくなる時がある。とりあえず、外へ出て車を走らせた。

仕事が停滞してからも、なるべく大宮へ出掛ける事は続けてきた。街の活気に触れる数時間が、僕に希望を与えてくれる様な気がしていた。しかし、僕のふさぎの虫は、そう易々と退散してくれない。

かつて仕事が波に乗っていた頃は、僕も都心に事務所を構えて、数十キロの移動は毎日のように繰り返していた。仕事であれ旅行であれ、数百キロの移動は平気にこなしていた。

自宅から大宮までは約15キロ、数年前までは気軽に行き来できる距離感だった。東京近郊に在住していれば、通勤・通学でかなりの人達が、それより長い距離を毎日移動している。

それが今では、数キロの移動に難儀する。なるべく自宅から動きたくない。行動する事に抵抗を感じてしまうのだ。負け癖が付いてしまって、どうせ何をやっても無駄だろうと虚しさがこみ上げてくる。

自分の人生が小さくなり、活動エリアが狭まった事を実感している。でも、僕はそれを悲観していない。若い頃は、外の世界を広げようと、無理して背伸びしていただけなのだと解釈している。

中年になって人生の折り返し地点を過ぎると、若い頃に見た景色が違って見えてくる。必死に追い求めていた成功が、自分の心に重しを付けて、ぎこちない演技を自分に強いていた事に気付く。

一人前の社会人という虚像に振り回されて、他人の成功にあやかろうとする。そして大半の人達が、不必要な買い物のツケを払う為に、貴重な人生を担保に取られる。

僕の生活が破綻したのも、僕の本能がドクターストップをかけたのかもしれない。自分を守る為に、自分を壊したのだ。心の苦しみは続いて、未だに虚無感に囚われている。

それでも、自分の適性なサイズに人生を再構築したいから、身の程知らずの野心は捨てる事にした。

希望が失望に終わった事を認めよう。大宮のネオンを思い浮かべながらも、体は拒否反応を起こしている事実を受け入れよう。本能では、大宮通いも割に合わない行為と判断しているのだろう。

今晩は本能と妥協して、川越に進路を取った。川越までは10キロ以内だ。いくらか本能の抵抗感も薄らぐ。大宮ほどの活気はないが、川越駅周囲は、東上沿線では最も栄えている。県内で二番手、三番手でもいいじゃないか。

駅ビルのテナントに松屋が入っている。トンカツ定食が本命だが、ネギ塩豚丼で妥協するのも悪くない。一杯の牛丼が贅沢に思える貧乏暮らしを、ここ数年続けてきた。たまに街へ出て、気晴らしに外食が出来る。それだけでも良しとしよう。

夜22時を過ぎていたが、電車が到着する度に勤め人風の客が入って来る。皆一様に黒いコートを着ていて、黙々と食事を済ます。

帰宅後、数時間の睡眠をとれば、起きてまた明日も仕事だろう。僕も、充実と閉塞が入り混じったサラリーマン時代を過ごしていた頃を思い出す。

人生に正解や近道を求めるから、人は悩んでしまう。善や幸福ばかりを求めるから、自分や他人を裁きたくなる。いくら苦しんだって、どうしようもないのが人生だ。

達観や諦観には程遠い。だらしがなくて、ろくでもない自分の味方になってあげたいだけだ。ただでさえ誰も味方してくれないのに、自分で自分を攻撃していては、あまりにも可哀そうだ。

老齢になれば、どんな人も耄碌していく。金持ちも成功者も例外ではない。人間には、ギブアップが必要なのだ。必ず、その時が来る。自分を苦しめない為に、自分の敗北を認めよう。

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