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ノンマルト通信Express

フリーランスで自由自治

敗者の一撃、『新幹線大爆破』

映画

Amazonプライムで、今更ながらに『新幹線大爆破』を観た。名画座通いをしていた頃に、何度かプログラムで題名を目にしていた。和製パニック映画は安普請だろうとの先入観があり、しばらく敬遠してきた。

二時間半の長編である。序盤は大作にありがちな散漫な演出を懸念しながら観ていた。しかし、ストーリーが進むに連れて、どんどん作品に惹き込まれていった。

パニックを売りにしたアクション映画というよりも、アクション映画の皮を被った社会派ドラマの様相で見応えがあった。

高度経済成長が取りこぼしていった個人の尊厳を、敗者の視点から抉り出した佳作である。負け戦覚悟で一矢を報いる犯人達に、いつの間にか感情移入してしまう。

犯行に至る過去のエピソードが所々に差し込まれるが、倒産社長の高倉健と左翼崩れの山本圭の会話が印象的だった。

「沖田さん、博打は嫌いでしょ?」
「うん、あんまり好きじゃないね。どうして?」
「だからジリ貧になる。人生真面目にやりさえすれば、なんて思ってたんじゃないですか?」
「そういう君はどうなんだ?」
「負け犬には違いないな」

高倉健が演じる町工場の社長は、仕事に対して誠実であり、困った若者を放っておけない面倒見の良さもある。そんな実直な人物でも、下請けに甘んじたまま事業も家庭生活も破綻した。

それが何よりもリアルだ。町工場の社長といえども、社会的にはあくまでも弱者に過ぎない。経営を続ける為に多額の借入金を抱える事になるので、むしろ従業員よりも不利な立場で生きていると云えよう。

弱者である個人にとって、人助けは出過ぎた真似に過ぎないと肝に銘じよう。清く正しい人間を演じようとする良心が、かえって人生の歯車を狂わせてしまうのだ。

警察の強権的な捜査により、仲間が次々に倒れていく。犯行を中止して白旗を上げようとする高倉健に向かって、深手を負った山本圭が激白する。

「俺たちは元々見苦しい、みっともない、どうしようもない生き物だったから、この仕事を始めたんじゃなかったのか」

まだいい男を演じようとする分別のある高倉健に、真の決意を促す心に響くセリフだ。そう、人間は弱くて脆い存在なのだ。

それを認めたくないから、目標を掲げて希望に縋ろうとする。恐れているものを見る勇気がないから、上っ面の綺麗事でごまかそうとする。人間なんて元々見苦しい、みっともない生き物なのだ。

見栄や世間体の為に自分の本音を押し潰しても、結局は自分が社会から押し潰されてしまうのだ。不利は承知で抗わずにはいられない不条理が、この社会にはある。

たとえ誰かを傷付ける事態になろうとも、傷付け続けられた自分を守る為に、決起しなければいけない時がある。空約束で間をもたせるだけの希望より、進路を絶たれる失望の方がかえって潔い。

犯人と対局にいるはずの国鉄職員にも、いつしか変化が訪れる。科学の粋を集めた運行の自動制御装置が、時には自分達を危険に陥れるジレンマに苦しむ。

爆弾を仕掛けられた新幹線の運転士である千葉真一は、極度の緊張感から「SLだったら自分の腕で制御出来た」と当たり散らす。自分の能力が、機械や組織に従属させられる苛立ちでもある。

運転指令室の宇津井健は、管理職として冷静に任務を遂行しながらも、人間性を軽視する政府・警察・国鉄という組織社会に憤りをぶつける。彼もまた希望より失望を選んだのだ。

高度経済成長は、個人の尊厳よりも組織の体面を選ぶ事で達成された。立場は違えども、個人の尊厳を守ろうとする者は、現代社会では敗北し表舞台から立ち去るしかないのだ。

作品がクライマックスに向かうにつれて、観客は高倉健の国外脱出を成功させたいと願う様になるだろう。彼の脱出は、国民が押さえつけられて来た心の噴出口でもあるのだ。

多分、最後は止めを刺されることを予期しながらも、どうか逃げ落ちてほしいと祈りたくなる。敗者の一撃に自分の思いを重ねながら、映画は銃声と共にカタルシスを迎える。

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