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ノンマルト通信Express

フリーランスで自由自治

人生のリストラ

所感

トンカツ定食が食べたくなった。大宮で食べるワンコインのトンカツ定食が、無性に恋しくなる時がある。とりあえず、外へ出て車を走らせた。

仕事が停滞してからも、なるべく大宮へ出掛ける事は続けてきた。街の活気に触れる数時間が、僕に希望を与えてくれる様な気がしていた。しかし、僕のふさぎの虫は、そう易々と退散してくれない。

かつて仕事が波に乗っていた頃は、僕も都心に事務所を構えて、数十キロの移動は毎日のように繰り返していた。仕事であれ旅行であれ、数百キロの移動は平気にこなしていた。

自宅から大宮までは約15キロ、数年前までは気軽に行き来できる距離感だった。東京近郊に在住していれば、通勤・通学でかなりの人達が、それより長い距離を毎日移動している。

それが今では、数キロの移動に難儀する。なるべく自宅から動きたくない。行動する事に抵抗を感じてしまうのだ。負け癖が付いてしまって、どうせ何をやっても無駄だろうと虚しさがこみ上げてくる。

自分の人生が小さくなり、活動エリアが狭まった事を実感している。でも、僕はそれを悲観していない。若い頃は、外の世界を広げようと、無理して背伸びしていただけなのだと解釈している。

中年になって人生の折り返し地点を過ぎると、若い頃に見た景色が違って見えてくる。必死に追い求めていた成功が、自分の心に重しを付けて、ぎこちない演技を自分に強いていた事に気付く。

一人前の社会人という虚像に振り回されて、他人の成功にあやかろうとする。そして大半の人達が、不必要な買い物のツケを払う為に、貴重な人生を担保に取られる。

僕の生活が破綻したのも、僕の本能がドクターストップをかけたのかもしれない。自分を守る為に、自分を壊したのだ。心の苦しみは続いて、未だに虚無感に囚われている。

それでも、自分の適性なサイズに人生を再構築したいから、身の程知らずの野心は捨てる事にした。

希望が失望に終わった事を認めよう。大宮のネオンを思い浮かべながらも、体は拒否反応を起こしている事実を受け入れよう。本能では、大宮通いも割に合わない行為と判断しているのだろう。

今晩は本能と妥協して、川越に進路を取った。川越までは10キロ以内だ。いくらか本能の抵抗感も薄らぐ。大宮ほどの活気はないが、川越駅周囲は、東上沿線では最も栄えている。県内で二番手、三番手でもいいじゃないか。

駅ビルのテナントに松屋が入っている。トンカツ定食が本命だが、ネギ塩豚丼で妥協するのも悪くない。一杯の牛丼が贅沢に思える貧乏暮らしを、ここ数年続けてきた。たまに街へ出て、気晴らしに外食が出来る。それだけでも良しとしよう。

夜22時を過ぎていたが、電車が到着する度に勤め人風の客が入って来る。皆一様に黒いコートを着ていて、黙々と食事を済ます。

帰宅後、数時間の睡眠をとれば、起きてまた明日も仕事だろう。僕も、充実と閉塞が入り混じったサラリーマン時代を過ごしていた頃を思い出す。

人生に正解や近道を求めるから、人は悩んでしまう。善や幸福ばかりを求めるから、自分や他人を裁きたくなる。いくら苦しんだって、どうしようもないのが人生だ。

達観や諦観には程遠い。だらしがなくて、ろくでもない自分の味方になってあげたいだけだ。ただでさえ誰も味方してくれないのに、自分で自分を攻撃していては、あまりにも可哀そうだ。

老齢になれば、どんな人も耄碌していく。金持ちも成功者も例外ではない。人間には、ギブアップが必要なのだ。必ず、その時が来る。自分を苦しめない為に、自分の敗北を認めよう。

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