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ノンマルト通信Express

フリーランスで自由自治

寒いけれどトレーニング開始

所感

大分陽が伸びてきたが、まだまだ寒い日が続く。日中、快晴の天気ほど夕方からの冷え込みがきつい。

出不精の僕は、外出は極力控えて部屋に閉じこもりがちになる。冬の寒さは、心を無気力にする。強靭な肉体を持つ熊だって、冬は眠り続けて命を長らえる。

心も体も、年中使いまわしていたらエネルギーが枯渇する。休む事、さぼる事はむしろエネルギーを回復する為に自然なサイクルなのだ。

休むことを許されない日本人は、哀れな民族だ。命令する側も、命令を受ける側も合理的な判断が出来ず、情動的に苦しめ合い、負の連鎖を断ち切る事が出来ない。踊る阿呆と躍らす阿呆は、こっちから見限るしかない。

僕も相変わらず低調な日々を続けているが、自宅に引きこもる事でエネルギーの漏洩を防いできた。破滅に突き進む前に、無謀なレースを棄権することで、我が身の回復に進路を振り替えた。

無気力の重力に引き摺られながらも、時折やりたい事のイメージが湧いてくる。何度も欲求が湧いてはその都度打ち消してきたが、僕のエネルギーの目盛が僅かだが充電された様だ。

久し振りに運動する気になった。というより、運動が出来る予感が湧いてきた。今なら、自分に鞭打たず自然な気持ちで運動が出来そうだ。

夕方、外はすっかり冷え切っていたが、近隣の体育館へ向けて車を走らせた。ジャージは普段着ているものでいい。シューズは内履きが必要なので、一週間前に新調しておいた。

体育館で着替えを済ますと、館内をゆっくりと走り始めた。運動の基本は歩くこと、その次に走ること。余計な動作は要らない。呼吸しながら普段より心拍数を上げる事で、エンジンが徐々に温まっていく。

館内を4周したら、少し汗をかいた。適度に息も上がっている。それからフィットネスルームに移動して、筋肉トレーニングを始めた。体を慣らす事が目的なので、とにかく負荷を軽くした。楽な動作を続けることで、トレーニングへの抵抗が薄まる。

一般人にきつい運動は厳禁である。脳が嫌がって、結局は運動嫌いになってしまう。僕も部活や武道の経験はあるが、所詮は我慢比べの世界だったと思う。若い頃は、きつい経験があとで楽になると妄信させられていたが、苦痛は心に傷を残すだけだ。

大方の日本人は、自分の心の傷に気付こうとせず、尚更アクセルをふかそうとする。雨ニモマケズ、風ニモマケズ、年がら年中、日本社会は我慢比べの泥沼にはまっている。理性でブレーキを掛けられないので、ぶっ壊れる迄気付かないだろう。

途中にジョギングを挟みながら、軽いメニューを何度も繰り返した。マットの上で柔軟も欠かせない。なまった肉体には、筋トレ以上に柔軟の方が大切だ。

最後はマッサージ機に横になり、全身をもみほぐしてもらう。これで、明日の筋肉痛も軽減されるだろう。

のんびりと1時間半のトレーニングを終える頃には、心も体もポカポカしている。適度な疲労が、普段の思い煩いを忘れさせてくれる。運動の効能は周知の通りだ。だからと云って、弱っている人に安易に勧めるべきではない。

大事なことは、やる気が湧いてくるまで、心と体を休息させる事である。その休息の許可を与えられないから、日本人は哀れなのだ。自分たちの不幸に目を背けて、綺麗事のスローガンで心を麻痺させる。

川で溺れている者に向かって、「泳いで岸に辿り着きなさい」と声援を送る事は、如何にも馬鹿らしい。中には、川で溺れている者に向かって、「自業自得、自己責任、迷惑をかけるな」と中傷し、説教を始める大馬鹿野郎もいる。

周囲にそんな馬鹿しかいないのなら、そんな連中はシャットアウトして、自分で自分を許すしかない。自分の判断に他人の許可は要らない。自分の力だけで物事を解決できるとは思わないが、自分の味方になってやれるのは自分しかいないのだ。

それでも人は弱いから、何かに縋ってみたくなる。神頼みや墓参りをして、少しでも気が休まるのなら、宗教は心の杖になる。その杖に縋ってきた者に、宗教者は寄り添う義務がある。その気がないのなら、紛らわしい看板は下ろしてくれ。

川で溺れる者を見捨てる冷たさが、日本人にはある。自身もいつ溺れるか分からないというのに、幼稚な言霊信仰で臭いものに蓋をする。人と生まれて、悩みのない者はいない。老若男女、善人も悪人も困るはお互い様だ。

困った時に許し合える博愛精神、困った時に助け合える社会基盤、それが現在の日本人に足りないものだと思う。

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